直訳すれば「氷を壊す」だが、ある集会や初対面が多いときの緊張感や抵抗感を取り除くコミュニケーション促進のための総称をいい、アイスブレイキングとも言う。 ふくおか森林インストラクター会でも学校や団体での各種行事では、簡単で取組みやすいゲームなどを取り入れているが、アイスブレイクにはそれぞれにあわせたそれなりの「品位」が求められる。
けど、日常いつもが聖人君子では息が詰まるので、偶には下世話な連中と呑んだりもすることも必要となるが、そんな時そんな連中とはアイスブレイクなど必要はない。 必要なのはウイットに富んだ会話であり、楽しい時間が共有できればいいのだが、時として話の接ぎ穂に小話も必要になる。呑みも進んだ頃合いの若い女性と話すには丁度いい話があるので紹介しよう。
私の愛読書ビックコミック・オリジナル「真夜中のこじか」(原作・北原雅紀/漫画・あおきてつお)に、大火傷を負った中学生と若き女医との会話が次のように描かれている。
ねえ、バンビ先生 英語でキツネって何て言うんだったけ? 一体なあに? FOXでしょう。 じゃ箱は? BOX。 数字の6は? SIX。なあにエックスで終わり単語ばかり… じゃあ、アレは、 アレ? そうアレ。 な…何!? つまんないこと言わせないでよ。 あはは、何アセってんの?アレは英語でTHATじゃん。えー?バンビ先生、何と勘違いしたの?
このあと少年は容態が急変して亡くなるのだがそこは割愛させてもらって、この部分は何処そこで使えそうだ。 いつも下ネタが多くて失笑を受けるが、これはどうだろうか。 解説がいるようなお馬鹿ネーちゃんじゃ話にならないけど、幸いに周りは才色兼備ばかりだから大いに盛り上がるに違いない。 さて、反応は如何に!?。 楽しみだな~。
2005年の南アフリカ・イギリス作品「ツォツィ」をTVで観た。 この映画は、第78回アカデミー賞・外国語受賞作品であるが、それは次のプロローグから始まる。 ”南アフリカのアパルトヘイト後も続く過酷な現状と未来への希望を見つめた感動作。スラムに生きる一人の少年ツォツィは怒りと憎しみだけを胸に日々生き延びてきた。ある出会いによってツォツィは「生きること」の意味や命の価値に気付き希望と償いの道を歩み始める。” <ツォツィとは南部ソト語でチンピラを意味する>
作品のストーリーは省くが、作品の中で考えさせられるシーンがあった。 それは、その日稼ぎの連中が、リーダーのことを「あいつには品位がない」というシーンだ。別の仲間が「品位とは何か」と問うと、それは「自分を尊敬することだ」と応えた。
品位とは、『人や事物に備わっている気高さや上品さ。品格。』と大辞泉には載っているが、映画のチンピラが仲間に言った「自分を尊敬すること」こそ本当の品位ではなかろうかと思う。 そのいい事象が、あの未曾有の大震災で東北の人達がとった冷静な行動だ。 それを見て日本人の「民度の高さ」が世界中で賞賛されたが、それは日本人には「社会一般の常識を知り秩序を守れる」という源泉があり、「自分に対する品位」というものが自ずと備わっているからだと思う。
映画「ツォツィ」は、「品位とは何か」を考えさせられた秀作であった。
大寒に入ったら「約束」したかのように寒波がやってきて小雪が舞っている。
スイセン(水仙:ヒガンバナ科)の原産地は地中海沿岸地方で中国を経由して日本に渡来した。 名の由来は、中国古典から「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水に在るを水仙という」からきてそのまま音読みしたものだが、また学名につくNarcissus(ナルシサス)はギリシャ 神話の美少年の名前で、泉に映った自分の姿に恋をして毎日見つめ続けたらいつの間にか一本の花になってしまったことに由来している。 ”ナルシスト”とはここからきている。
また別名を雪中花といい、その立ち姿といい白と黄の明快な花といい、積もる雪に足を埋めていても、また花冠に雪を被っても、緑を薄白で刷いたスラリとした立容姿から、洋の東西を問わず神話から名が付いたのも頷ける。
ややも寂しい冬花壇にあっても、そこには美少年や仙人達がちゃんと静かにそっと佇んでくれている。
ここんとこ悲喜交交の、いや交交というほどでもないが、18日は北九州芸術劇場でのニューイヤーコンサートのステージ装飾と片づけで夜中まで働き、翌19日は大分で弟の義父の葬儀に参列し、さらに昨日はニューイヤーコンサートに用いた花資材の片付けと、夜は昔の同僚と「角打ち会」と称した呑みごとを立続けに過ごした。
18日の北九州芸術劇場での演奏は、指揮/梅田俊明氏.ソプラノ/林麻耶さんによる九響の「華麗なるウインナ・ワルツの饗宴」だったけど、長崎ブリックホールや福銀本店大ホールとまた違った感動のステージに酔った。 ステージ装飾や終演後の片付けの慌ただしさはあっても、ワイフたちが装飾したステージで、九響の奏でる響きや、美しいドレスが映える林麻耶さんの澄み渡る独唱を観聴する時間は、いつもだけど、またいつもと違った感動を覚えその時を過ごせる喜びに浸ることが出来た。
19日は一転して葬儀の参列に加わって死の悲しみに触れたが、故人の人徳だろう多くの参列者に見送られての大きな葬儀だった。福岡と大分という位置関係から数度としか会う事のなかった人だけど、安らかな逝き顔をみて幸せな人生だったんだろうなと思えた。 生あるもの何時かは迎える死だけど、それは判ったことでも、また数度しか遭うことがなかった人でも、やはり涙腺を緩める悲しみを感じて仕舞う。
そして昨日は、花の資材を片付けてから「角打ち会」に行ってきた。 角打ち会とは、以前に勤めていた近くの酒屋さんで毎日のように立ち飲みをしていたのだが、2000年に会社をやめてからも今だにメンバーが集って飲む会なのだ。 今回はメンバーが少なかったけど、それでもワイワイとやっていたら4時間も呑み談笑していた。いや、楽しかった。
朝起きて独り静寂にあって、ここ数日の喜びや悲しみの織り成した紋に思いを耽っている。 こうした生活を繰り返しながら、さて私はあと何年生きられるのだろうか。どうか安寧な生涯が閉じられますよう思うばかりだ。 いや、おっとっととまだまだ早い。 「尺蠖の屈めるは伸びんがため」の精神で、まだまだ多くの悲喜交交を経験しなくちゃ。 まだまだ安寧などと老けちょる場合じゃなかばい。 んだ、んだ。
今日の100年の森の天空は一面の青空が広がって、風もなくどこか長閑で穏かな冬日和の一日でした。 その穏かな100年の森の山小屋で、明日北九州芸術劇場で開催される花の準備に追われた。 今年の一連のテーマは「希望の架け橋・虹」です。 ワイフも色色と趣向を凝らしながら創作していますが、それをアシストする私も結構大変なのです。 ま~でも、それはそれで楽しんでやってます。
ワイフに連れられて、あえて遅くに花市場に行った。 だから既にセリとその喧騒は終っていた。そしてどこか一息入れて安堵したような仲買の店先には、その空気に交ざって疎らな客がゆったりとしていた。
色取り取りの花の中にあって、やっぱりバラ(薔薇:バラ科)は花の女王だね。 このバラはバケツにごそっと入っていたが、高価なバラはそれはもう宝石でも扱うような気配りでガラス張りのキーパーに大事に収まっている。
いろいろの花と花ごとにランクがあって扱いが随分と違う。 それはどこか人間社会を映しているかのようにもみえる。それは生まれつきなのか、生い立ちなのか、花ならば「人気の度合い」で片付くかもしれないけど、人のそれはもっと複雑で、藻掻いても足掻いても仕様のない「仕組」か「原理」があるのかとさえ思ったりする。
いやいや、折角華やかな花市場にきたのだから、そんな辛気臭いこと何ぞ思わずに、百万本のバラでも口遊んで陽気にいこう。 人生、前向き、前向き。 レッツらゴーだよ。
今年も福岡銀行さんからニューイヤーコンサート会場のステージ装飾のお仕事をいただいた。
ニューイヤーコンサートといえば、元日にライブで観賞できるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が余りにも有名だが、福岡銀行さんも毎年九州交響楽団を招いて「ふくぎんニューイヤーコンサート」を開催されている。
今回は、長崎ブリックホール(親和銀行)、福銀本店大ホール、そして北九州芸術劇場の三ヶ所を担当させていただくが、それは花の仕入準備から当日の装飾と片付けまではハードな仕事だけど、その飾り付けられたステージで九州交響楽団の奏でる響きに、それを聴き入る満場のみなさんの万雷の拍手が何よりの慰労となる。
長崎ブリックホールでは、未明からワイフとKさんSさんが乗合う二台の車に花材を満載して行き、装飾に取掛かるが済ませたのは二時を過ぎていた。 遅い昼食を済ませて、グラバー園などで過ごした後、開演からお客様にまざって、現田茂夫氏率いる九州交響楽団の演奏とテノール歌手・青栁素晴氏の美声に酔いしれていた。
そして昨日は福岡銀行本店大ホールの装飾だ。 昨日のメンバーに、Iさん、Aさん、Hさん、Aさんが加わってくれたので12時には終了した。 疲れもあって一旦帰宅して仮眠したあと、花束を持って会場に行ったが、今度はステージの袖から演奏を聴かせてもらった。 そこはまた客席とは違った演奏の迫力や響きやより深みのある余韻などが堪能できたし、演奏を終ってステージを下がられる現田氏にも青栁にも、それから奏者の皆さんにも「ご苦労様でした」と声を掛ける事ができたのも望外の喜びだった。
二日連続の仕事だったので流石に疲れもしたが、福岡銀行さんの音楽を通した地域貢献活動に接することが出来たのも、余禄と言っては余りにも失礼だけど九州交響楽団の織り成す楽曲が聴けたのも、今日は満足した休日の糧となっている。 まだ、北九州芸術劇場の仕事が残っているが、微力では在るが誠心誠意努めて福岡銀行さんの地域貢献活動の一助に為れれば幸いである。
私もあっちこっちと行ったりするが、今度のアサギマダラのニュースには感心もし感動もした。
【香港時事】長距離を移動することで知られる大型のチョウ、アサギマダラが和歌山県から香港まで約2500キロを移動したケースが6日までに確認された。専門家によると、アサギマダラの移動距離としてはこれまでで最長。
このチョウは昨年12月31日、自然保護団体の大埔(タイポ)環保会メンバーが香港島南部で発見した。羽にマジックで「10/10」「西山」などと書かれていたことから、同会がアサギマダラを研究している大阪市立自然史博物館に問い合わせたところ、昨年10月10日に和歌山県日高町の西山、さらに同20日に高知県香美市で研究者が位置などを示すマーキングをしたことが分かった。
同博物館の金沢至主任学芸員によれば、アサギマダラはこれまで、日本から台湾や中国浙江省、韓国に渡ったケースが確認されているが、香港への飛来は初めて。金沢氏は「過去最長の移動距離は長野県―台湾間の約2300キロ。今回は間違いなく、それを上回っている」と指摘した。(原文:時事通信1月6日)
凄いですね。 何処にそんな飛翔力があり、何処にそんな能力があるの?。
また以前にヒマラヤ山脈を越えるツル(鶴)の映像を見たことがあるが、8000㍍級のヒマラヤ山脈のそのはるか上を超えるのだから恐れ入る。 一方でヒトはというと、8000㍍からをデスゾーンといい、酸素ボンベなしでは生きていくこともままならない。 鍛え抜かれた一流の登山家でさえ酸素ボンベを背負って、一歩そしてまた一歩を喘ぎながら登って行くが、ツルはそのはるか上空を体一つで越えていく。 このツルといい、今回のチョウといい、それに比べヒトのなんと、か弱気いものだろうか。
ヒトは生物界の頂点に君臨しているかのような錯覚でいるが、屈強の一流の登山家でさえ酸素ボンベなしではヒマラヤには立てないし、ヒトは飛行機や船を使わなければ香港にも行けやしない。
快適快楽を享受し続けたヒトも、こうしたチョウやツルたちの生き方に学べるものが有りそうだし、教えられていそうな気がする。 地球温暖化現象をとめるのは、ヒト以外にはいないのだし、もともとの元凶が他ならぬヒトだからである。
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